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やっぱり相撲は今日で千秋楽なので今日中に書いてしまおう!

ウィキペディアに魁皇について実に詳細に書かれているので、もうクドクドかくのはよそう。

でもこの力士の思いでは尽きない。
大関昇進を決めた平成12年7月場所千秋楽の一番を車のラジオで聞いた後、ついに”福岡から大関へ”の念願がかなってつい涙してしまったこと。

魁皇の「BEST FIGHT」 大関をほぼ手中にした武蔵丸との大熱戦!
探してたんです、この動画、UP主さん有難う!



5度も優勝しながらことごとく綱取りのチャンスをつぶすうちに満身創痍になり引退の瀬戸際に追い詰められたカド番の平成18年3月場所。6日目で2勝4敗になり勝ち越しが絶望的に思えた時、不意にアリスの「チャンピオン」の1節
「立たないで、もうそれで充分だ!おお神よ、彼を救いたーまえー♪」の歌詞が頭の中をめぐってきたこと。まさかこの場所5勝7敗の崖っぷちから生還し、その後5年も延命するとは夢にも思わなかった。

もう1つ上の悲願「横綱」へは本当にあと一歩、紙一重のところでなれなかった。
”勝負事に「もしも」は禁物”といわれるが、後述の「もしも」のうち1つでも回避出来ていれば多分横綱になれただろうと思う。

1.平成9年5月場所 貴ノ浪戦での大怪我が無ければ・・・
 この前の場所には優勝決定戦にも出ており、この場所の成績次第では大関昇進もあり得たのだが、この1番で股関節に大怪我を負ってしまう。力士生命が終わった!と思うほどの重症で、事実その後2年ほど低迷し後輩の千代大海、出島、最大のライバル武双山に大関争いで先を越されてしまい、もう大関は無理なのでは?と諦めたこともある。後年悩まされることになる腰痛もこの時の怪我が多分に影響しているものと思われる。この怪我がなければ
もっと早く大関に上がり、横綱にも上がっていたはずである。

2・朝青龍の台頭があと数場所遅かったら?
 大関として初めて優勝した平成13年3月場所後の5月場所は綱取りの場所であり、場所前は魁皇自身はマイペースで調整したかったはずだが当時入幕3場所目で新進気鋭の朝青龍が魁皇の胸を借りに来た。スタミナ充分の若武者相手に真面目に付き合いすぎてしまって腰がパンクしてしまった。結果、5月場所は途中休場。大関に上がって半年くらいが魁皇の一番強かった時期であり、この時に横綱に上がっておきたかったが朝青竜の台頭は誤算だった。

3.白鵬の台頭があと1場所遅かったら?
 平成16年9月5度目の優勝を果たす。年齢的に翌11月場所はラストチャンスと思われた。地元の声援を受け8勝1敗で迎えた10日目、入幕4場所目で同じくここまで1敗の白鵬と対戦する。実力では大きく上回ると思われた魁皇だが負けられないプレッシャーから固くなってしまい悪い癖の小手投げで相手を呼び込んでしまいまさかの黒星を喫する。これで事実上綱取りは終わってしまった。

若かったとはいえ大事な所で後の大横綱二人が立ちはだかったのは不運であった。そういう意味で魁皇は横綱になる星の元には生まれてなかったといえる。
しかしこれで良かったのかもしれない。なまじ横綱になってしまうと史上1位の通算1047勝、幕内通算107場所などの大記録は見れなかっただろうし、燃え尽きるまで戦う姿を見ることも無かっただろう。横綱とはそういう地位である。

私の声など届かないだろうが、魁皇関、19年間もの長い間、夢を見させてくれてありがとうございます。そして本当におつかれ様でした。

そして私の全くの個人的趣味の駄文ににお付き合いいただきました皆様、ありがとうございました。

23年5月 白鵬戦 横綱戦最後の白星 まさに怪大関!(かいおうぜき)


















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私が精魂こめて応援した「思い出の力士たち」最終回は今年の7月場所引退した魁皇である。

私の故郷福岡は人口が多い割になかなか強い力士が出ないところである。横綱となると明治時代、江戸時代に2人いただけであり、昭和以降は大関すら誕生していなかった。
その待望の福岡出身の大関が魁皇である。

栃赤城がフェイドアウトしていった昭和60年以降、私の相撲熱も次第に冷めていった。
時は平成に移り千代の富士の独裁政権が終わり、若貴兄弟や曙が台頭し、大相撲はブームを迎えていた。そんな平成4年1月魁皇は新十両に昇進する。すでに同期で入門した若貴や曙は幕内上位で活躍し大関を目指していたが、彼らの出世が異常に早すぎるのであって魁皇も新十両時は若干19歳、充分すぎるほどのスピード出世である。体格も均整がとれており怪力の持ち主らしい。この力士なら”福岡出身大関”の夢をかなえてくれるのではないか?と再び相撲に目を向けさせてくれたのである。まさかそれから今年の7月までの19年の長期間にわたってこの力士を応援し続けることになろうとはこのときは想像もつかなかったが・・・。

その後順調に出世し、平成6年3月にはすでに横綱、大関に上がっていた曙、若貴と対戦する地位まであがってきた。この場所、初日に大関若乃花を下し、8日目には横綱曙を破り初金星をあげる活躍をみせたのである。これで”この力士なら大関に・・・”という私の期待は確信に変わった。
ちなみに私はこの翌月平成6年4月に生まれ育った福岡を後にし関西で就職するのであるが、それから今日に至るまで人生の半分近くを魁皇をつぶさに見続けたのである。

平成6年3月 曙戦 初金星 若い!


前述の輪島、魁傑、栃赤城も大変な人気力士だったが、魁皇の人気はさらにその上を行っていたと思う。若いころから引退するまで一貫して人気力士であった。豪快な相撲ぶりも人気の秘訣だったが、それだけではない。
世の中には本人は面白い事をしなくても存在自体が面白かったり、なぜか妙な出来ごとに巻き込まれて当事者になってしまいがちな人がいる。魁皇はまさにそんな人だった。何故か面白いエピソードが多いのである。真偽の不明な話もあるが、たとえば・・・

・酒に酔って当時の境川理事長(元横綱佐田の山)の頭を「このハゲ」と言いながらペシぺシ叩くという狼藉をはたらく。翌日友綱親方は平身低頭謝罪したそうである。
・同じく酒に酔い当時の北の湖理事長に「おれ、右上手をつかんだら理事長より強いと思うんだよね。」とカラみ、ムッとさせる。
・新聞(またはインターネットのニュース)に「魁天皇」と誤植される。
・魁皇に敗れた横綱貴乃花が支度部屋で驚くべき発言の数々で記者たちをあぜんとさせる。「くそっ、やってらんねーよ!」「最強横綱の復活 だよ!」「 明日から暴れまくってやるよ!楽しくヤローぜ!」
 この貴乃花の「ご乱心」は当時のマスコミを大きくにぎわせた。
・朝青龍と旭鷲山のモンゴル抗争を本場所の風呂場で見事仲裁する。

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魁皇の話をまともに書き始めると1週間あっても終わらないかもしれない。
とりあえず今日はこのくらいにしておこう。

ところで九州場所は今日でおわり。注目の稀勢の里は何とか大関昇進を果たしそうだ。
10勝での昇進は下駄をはかせてもらったようで釈然としないがまあよしとしよう。
その時々の雰囲気で昇進の目安など適当に変わるのが昔からの大相撲のいいところなのだから・・・








私の応援する輪島や魁傑がそろそろ晩年を迎えた昭和53年頃、実に面白い相撲を取る力士が頭角を現してきた。
春日野部屋の栃赤城である。

当時の幕内力士の平均体重よりも少し大きかったと思うが、体を生かして前に出る相撲はめったに取らなかった。
相手に土俵際に寄られて、普通の力士ならとっくに諦めて土俵を割るような態勢になってからがこの力士の真骨頂で、粘りに粘って悪あがきをした挙げ句アッとおどろく大逆転勝ちをしてしまうのである。
高校時代は柔道選手だったようで、柔道もどきの大技もよく見せた。足払い(すそ払い)、内また(掛け投げ)、背負い投げの変形(かいなひねり)、小内刈り(ちょん掛け)、立ち技での関節技(さかとったり)などである。

さらに横綱、大関にもめっぽう強くて、NHKの殊勲インタビューではムッツリとした力士のイメージとは真逆で愛嬌のある顔でニコニコと実に気さくにインタビューに答えるのである。

「サーカス相撲」「土俵際の魔術師」などと異名をとり、滅多にお目にかかれない珍手をくりだし、土俵を離れるとバロック音楽をこよなく愛し、当時の春日野部屋の若い力士はみんな栃赤城の付け人をやりたがったという逸話があるほどの人柄。
小学生の私はあっという間に栃赤城のとりこになってしまった。

サーカス相撲だけでなく、徐々に正攻法の相撲も取るようになり昭和54年11月場所は前頭筆頭で3横綱を倒して10勝5敗、続く55年1月場所では関脇で11勝4敗の成績をあげ、とうとう大関の地位がすぐ目前にまでやってきた。

大関チャレンジの場所となる3月場所、緊張とは無縁そうに見えた栃赤城にもプレッシャーがかかっていたのだろうか。そして変則相撲の栃赤城に易々と大関とりを許してしまうほど相撲というものは甘くはなかった。本来の粘りが影をひそめて成績が上がらず、しかも14日目の相撲で押しこまれた際に足に大けがを負ってしまう。大事な大関とりの場所で受け身の相撲の弊害が出てしまった格好である。

大関とりは白紙に戻ってしまったが、けがから復帰した55年7月場所は足をかばいながらの相撲ではあったが意外にも好調であった。そして7勝5敗でむかえた13日目、私の栃赤城の観戦歴の中で最高の1番を見ることになった。相手は同じく7勝5敗前頭2枚目、あの千代の富士である。当時の千代の富士はタダの軽量力士からようやく実力をつけ始め、次代を担うスター候補として頭角を現し始めたころであった。そんな2人の一戦は手に汗にぎる熱戦となったが、両まわしを引き付けた千代の富士がチャンスとばかりに一気に正面土俵へ突っ走ると土俵際に追い込まれた栃赤城はけがをしたほうの足で辛くも踏ん張り思い切ってすくい投げを放つと、軽量の千代の富士は宙を舞い、なんと頭頂部から土俵に突き刺さりワンバウンドして土俵下へ転落していった。なんという勝負カンのよさ! いつもはもっさりとした解説者の玉の海梅吉さんも1オクターブ高い声で「すばらしー相撲だったねー!」と感嘆した名勝負であった。

しかし、その後この2人が残酷なまでにコントラストを描いて対照的な土俵人生を歩むことになろうとはその時は 夢にも思わなかった。
千代の富士はご存じのようにその後ウルフブームを巻き起こし一気に大関横綱へと駆け上がって31回優勝の大横綱へと成長を遂げる。一方栃赤城はけがの影響で徐々に精彩を欠くようになる。昭和56年に入ると新大関の千代の富士に初黒星をつけたり、それまでなかなか勝てなかった横綱北の湖に勝つなどときおり存在感を示すものの次第に最大の特徴である粘り腰が影をひそめるようになってきた。そしてついに昭和57年に入ると幕内から十両へ転落してしまう。私は「なーに、怪我が完治しさえすればまた上位に戻ってまた面白い相撲を見せてくれるさ」と楽観視していたが、この頃になるとけがに加えて糖尿病を患い、全盛時より体が2まわり程しぼんでしまったようになっており、十両の土俵でも悪戦苦闘するようになっていた。かつては格下だった千代の富士や隆の里が横綱にあがり、一方あれほどの華やかな輝きに包まれた栃赤城が十両でも勝てず下から上がってくる若い力士たちの踏み台になっていく姿をみるのは大変悲しかった。

あの千代の富士との死闘はその後千代の富士が描く上昇カーブと栃赤城が描くことになる下降カーブがちょうど交錯したところで行われた戦いだったのだ。

やがて十両からも転落し、テレビで彼の相撲を生観戦することもできなくなってしまいやがて私の関心から消えて行ってしまった。最後は何と幕下より一つ下の階級の三段目にまで落ちて引退することになった。
それでも最後まで栃赤城は栃赤城だったようである。
幻の技「五輪砕き」で勝利をおさめ、それを置き土産に土俵を去ったそうである。(五輪砕きについてはこちらをご参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%8D%81%E5%85%AB%E6%89%8B#.E4.BA.94.E8.BC.AA.E7.A0.95.E3.81.8D

引退後は故郷の群馬に戻り実家の家業を継いで、現役時代と変わらない気さくさで地元のおばさんたちに大人気だったそうであるが、ゴルフの最中に急死されたとのことである。

もう2度とこんなに破天荒で愛すべき力士は出てこないかもしれない・・・


魁 傑前回のつづき
せっかく苦労して再び手にした大関の地位であるが、ケガの影響で万全の体調で土俵に上がれず、わずか4場所でまたしても大関の座から滑り落ちてしまうのである。
その後もくさることなく誠実に土俵に上がり続けたが、もう大関返り咲きを目指して快進撃を続けていたころの元気な姿を見ることは出来なかった。

それでも昭和53年3月場所相撲史の残る大激闘を演ずる。
相手は「相撲博士」「ピラニア」「土の匂いのする力士」の異名をとる大関旭国。すい臓炎で入院しながら病院を抜け出し本場所の土俵に上がり「土俵の上で死ねるなら力士として本望」の言葉を残しており、「休場は試合放棄」と語り決して休場しなかった魁傑とは相撲へ命を賭ける姿勢という点で通じるものがある名力士であった。
相撲はお互いに一歩も引かず3分以上が経過し水入り、取り直し後の相撲でも決着がつかずついに2度目の水入り。
大関と元大関の取り組みはお互いに負けられない意地があったのだろう。
さすがに3番続けて取らせるわけにいかず、後ろに控える横綱戦を先に終えたのち、結びの一番として再戦するという前代未聞の措置がとられた。3度目の取り組みも大熱戦となったが、最後は息の上がった旭国を寄り詰め、必死に残すところを渾身のすくい投げで合計10分23秒の死闘に決着をつけた。NHKの中継終了時間は実に18時23分であった。
この勝負はまだ前半戦の7日目に組まれており、両者これほどの激戦を演じたにもかかわらずともに終わってみれば10勝5敗の好成績を残したのである。その鍛え上げたスタミナには驚くばかりである。

そして54年1月場所、ついに引退した。私は「まだ余力があるだろうに・・・」と残念な思いだったが、見事な散り際だったとも思う。

好調時には突っ張ってよし組んでよしで、投げや出し投げのキレが鮮やかで、入門前は柔道でオリンピックを目指せるほどの逸材だったらしく内掛けなどの足技もみごとであったが、反面腰高で両足がそろってしまう癖があり脆い負け方をする傾向があった。その強いときと弱いときのギャップが見ているものをハラハラさせた。そこがまた人気の秘訣だったのかもしれない。

輪島と魁傑。 同じ花篭部屋に所属しほぼ同時代に活躍していた。別に私は花篭部屋のファンではなかった。この2人のファンだったのは全く偶然である。でも同部屋同士なので本場所の土俵で二人は対戦しなかった。二人とも優劣けることなく心おきなく応援できたことが幸せだった。
それにしても対照的な2人だった。強運の持ち主で、派手好みで相撲ぶりもずる賢さすら感じるほどウマい輪島に対し(輪島さんゴメンナサイ)、魁傑の土俵は誠実そのもので常に病気やけがなどで不運が付きまとっていた。まさに光と影のように対照的であった。
しかし、引退後の二人は逆転する。私生活のトラブルで輪島の花篭部屋は閉鎖を余儀なくされ魁傑の放駒部屋に吸収されるのである。

その後「スイーツ横綱」こと大乃国を育て、現在はご存じのように理事長の重責をになっている。元横綱が代々務めてきた理事長の座に大関としても芳しい成績を残せなかった力士が座るのである。現役引退後の親方人生では異例の出世と言えるだろう。
放駒理事長
しかし例の八百長騒動では、持前の愚直な人柄がかえって裏目に出た気がするのである。
はっきりいって八百長など大昔から存在するにきまっているではないか。何をいまさら!である。
世間が何と言おうが当初携帯メールで名前が挙がった3.4人だけ謹慎処分にしてお茶を濁せばよかったのではないか? もし他の人間が理事長だったらあそこまで多くの廃業力士を出さずとも適当に幕引きを図ったのではないだろうか?真っ向からに問題に取り組みすぎて事を複雑にしてしまったような気がするのである。

うーん、でもそれは無理な話か? 外部理事の手前もあるし、公益法人への移行問題で文部科学省に急所を握られている状態ではなおざりな対応では許されなかったであろう。そして今は年寄株の問題でも早急な対応を迫られているようである。大変な時に理事長になったものであるが、定年までの残りの期間、大相撲を後世にしっかり残せるよう、改革を進めてほしいと思う。

この項終わり。




前項の輪島で書き忘れたが、私が輪島ファンになったもう1つの理由は母が北の湖ファンで大の輪島嫌いだったことである。輪島のような見るからに狡猾そうなタイプは好きになれなかったのであろう。
ところで幼児というのはとかく母親のいうことの反対をやりたがるものである。「そっち行っちゃダメよ」とか言われるとわざとそっちに行くのが子供なのである。自然と母親に対抗して輪島ファンでアンチ北の湖になったのである。
母親にはもう1人大の贔屓力士がいた。それが魁傑である。当然魁傑が負けると残念がる母親にわざと「ざまーみろー」てな具合でちゃちゃを入れていたのであるが、北の湖のケースと違って魁傑は本気で嫌いになれなかった。いやむしろ見れば見るほど気になってしまい感情移入してしまったのである。
だから公然と応援していた輪島と違い、母親の前ではアンチを装いながらも心の中でドキドキしながら魁傑を密かに応援していたのである。

魁傑には輪島のような強さも貴ノ花のような華やかさも無い。見た目も色黒で決してイケメンでもなくむしろ地味な外見である。しかし彼らに勝るとも劣らない絶大な人気があった。日本人の琴線に触れるというか、応援せざるを得ない何かを持っていた。なぜそこまで魁傑は心をとらえて離さないのであろう。
誠実そうだから?どんなに体調が悪く負けが込んでも決して休場という道を選ばないから?
それだけではどうしても説明がつかない。現役力士で昔の魁傑にソックリな力士がいる。豊真将である。魁傑と同じ山口県出身で色黒で、勝っても負けても相手に深々と礼をする非常に好感度抜群の力士である。でも感情移入という点では魁傑には及ばないのである。

魁傑
私が大相撲に興味を持ち始めた昭和51年1月、3月場所、魁傑は一度は手にした大関の座から滑り落ち、悪戦苦闘していた。おそらく大関時代に患った肝炎が完治してなかったのだろう。
しかし前頭4枚目まで番付を落とした51年9月場所、初めて本来の魁傑の姿を見ることになる。初日から快調に白星を重ね、中盤北の湖に敗れるがその後も白星を重ねる。ひょっとして優勝するのではないか?と毎日ワクワクしながら魁傑の土俵に見入っていた。そして見事14勝1敗で2度目の優勝を飾ったのである。
関脇に戻った翌11月、52年1月場所も好調は続き、連続11勝4敗の成績で見事大関復帰を果たすのである。
1度目の大関時代は幼すぎてリアルタイムでは見れなかったので、今度が始めてみる「大関 魁傑」の晴れ姿であった。

ちなみに大関から陥落した力士の平幕優勝の事例は魁傑ただ一人であり、大関から平幕まで落ちた力士が再び大関に復活することも、昭和30年以降では唯一の例である。

今回もまた長くなってしまった。続きは明日へまわそう
輪島を語る上で欠かせない存在、それは最高の好敵手、大横綱北の湖である。
輪湖
「憎らしいくらい強い北の湖」と言われていたが実際相当に憎らしかった。
巨体の持ち主でありながら動きは機敏そのものでまさに「動けるデブ」。
勝ち方がまた凄かった。その巨体に寄られた相手は土俵下へはじき飛ばされ、投げを食らった力士は派手に吹っ飛び、ひねられた相手は北の湖の足元にコロッと虫のように転がされるのである。いやしくも同じプロの力士同士が戦っているのにどうしてこんなに悲惨な負け方をするのか?北の湖の憎らしさは国民的マンガ「ドラえもん」に登場する”ジャイアン”そのものであった。
そのにっくきジャイアンをただ一人真っ向勝負で成敗してくれる力士が輪島であった。

昭和51年~52年はほとんど2人で優勝を分け合っていた。毎場所千秋楽結びの1番で対峙する2人の土俵は、仕切りの時から異常な緊張感がブラウン管越しに伝わってきた。”空気が張り詰める”というとありきたりの表現になるが、何か空気の粘度が急に増したというか、金縛りにあっているかのような感覚にとらわれるのである。2人の相撲はいつも手に汗握る大相撲になっていた。決して簡単には勝負がつかないのである。馬力で正面突破を試みる北の湖。その出足をうまく利用し得意の下手投げで対抗する輪島。若さと馬力の北の湖が制するのか?技と策略の輪島が凌駕するのか?息をするのも忘れる熱戦ばかりであった。
輪島もギリギリのところで戦っていたのだろう。勝つときは北の湖戦に限っては「切り返し」とか「浴びせ倒し」などの意表をついた珍しい決まり手が多かった。そして大銀杏のマゲが大きく乱れながらも大敵を仕留めて懸賞金を受け取る輪島は最高にカッコよかったのである。
(当時のNHKの相撲中継。実況は北出アナウサーや杉山アナウンサー。解説は人情派の玉の海梅吉さんや歯切れのよい技術論の神風正一さん。いや~、いい時代だったなあ~。)

輪島は大相撲の常識を覆す異端児であった。
大相撲の歴史上ただ一人の大学出身の横綱であり、しこ名を名乗らず本名で横綱になった唯一の力士である。
その相撲ぶりもきわめて特殊であった。不思議なもので決まり手の中で「上手投げ」は称賛されるが、輪島の最も得意とした「下手投げ」は「ヘタ投げ」と呼ばれ辛口の解説者からははたき、引き技に次いでウケが悪い技なのである。さらに輪島は「半身」という態勢を得意としていた。ほとんどの力士は上手マワシをつかみたがるものだが輪島は上手マワシを狙わずに、相手と正対せず(左四つ得意の輪島の場合は)左下手をつかんだ状態でハスに構えて右手で相手の左の差し手をねじり上げるのである。

ちなみにこの「ねじりあげ」は相撲中継でよく耳にする「おっつけ」とは少し違う「絞り」という技術で、当時のNHK相撲中継の「輪島、絞る!」という実況がとても懐かしい。今ではあまり耳にしなくなった技術である。

普通の力士にとってはこの「半身」は苦し紛れの態勢であり、確実に敗戦に近づく「負けフラグの立つ」態勢なのであるが、輪島にとってはこれが勝ちパターンなのである。この半身、左下手から輪島の代名詞「黄金の左」下手投げが炸裂するのである。大相撲のセオリーに背を向けるような輪島独特の相撲ぶりであるが、実際輪島と対戦した北の富士さんや北の湖によるとこの右からの「絞り」が実に強烈な為、続いて放たれる下手投げがどうしても残せないそうで、実は大変理にかなった攻めだったのである。

昭和53年以降は30代に入り体力に衰えが見られ、5歳若い北の湖が全盛期を迎えたことにより北の湖の独走を許し、輪島ファンには面白くない場所が続いたが、それでも晩年の54年7月と55年11月に復活優勝を遂げ大いに喜ばせてくれたのである。

引退後は、花篭部屋を継承したものの私生活のトラブルで相撲界を追放となってしまった。
どちらにしても超個性派の輪島はどう見ても大勢の力士の親代わりとなる育成者には向いてなかったような気がする。
プロレス入りしたもののいつの間にかプロレス界からも消え、その消息がとても気になっていた。
時代が流れて「若貴時代」に雑誌「Number」で輪島のインタビューを見つけた時には涙が出そうになってしまった。
その後はとんねるずの番組などでテレビに登場する機会も増え、元気な姿を見ることが出来て安心していたものである。そして2年ほど前にはついにNHKの相撲中継でデーモン小暮と共にゲストとして実況席に登場したのである。これは同時代に同じ横綱としてしのぎを削った当時の武蔵川理事長(三重ノ海)の英断があったのかもしれない。
出来れば今後も輪島氏を大相撲中継に登場させてほしいと願うのだが、いまの放駒さんが理事長の間は相撲協会の許可が下りないかもしれないな・・・
私は小学校に入る前の保育園児のころからずっと相撲をみて育ってきた。
小学校入学が昭和51年だからもうかれこれ35年以上見続けているわけである。その観戦歴の中で私が特別な感情を持って応援し続けた力士が過去4人いる。ちょうど九州場所も折り返し点を過ぎたところであるので、今日からその力士たちの思い出を書きつづってみたい。

一人目は54代横綱輪島である。
輪島物心ついて気付いた時にはもうすでに輪島ファンになっていた。最大の理由はやはりあの黄金のマワシが子供にはマブし過ぎたからからだろう。頂点を極めた王者だけに許される特別な色(実際は十両以上の関取ならだれでも好きな色のまわしをつけられるんですけど)。それが子供の心をわしづかみにしたのだろう。
余談になるが、後年朝青龍や白鵬も輪島にあやかり黄金のマワシで登場した事もあったが、彼らのマワシの色は黄色味が強く、輪島の黄金色とは似て異なっていた。あの輪島のマワシの色は若干くすんで、肌によくなじんだ絶妙な色であった。やはり金のマワシが似合うのは輪島をおいてほかにはいない。

輪島に魅せられた2つ目の理由、それはいかにも勝負師、策士を思わせるクセのある風貌が好きだったのある。逆に当時人気絶頂だった大関貴ノ花や美男力士若三杉(のちの横綱2代目若乃花)といった今でいうところのイケメン力士はどうも好きになれなかった。これは多分親父の影響によるところが大きいと思われる。また話は大きくそれるが親父は当時女性に大人気だった沢田研二、西城秀樹、郷ひろみといった連中がテレビに出ると
「チッ!またミーちゃんハーちゃんみたいなやつが出とる!バカたれが!」
とテレビに毒づいていたものである。それを受け継いだか私も中高校生時代は近藤真彦や光ゲンジの諸星といったチャラいジャニタレが大っ嫌いだったのである。

話は戻るが、輪島は土俵に塩をまく前、なぜか拳に握った塩をべろっと舌をのばして舐める癖があった。このときの表情が
「今日の対戦相手はどのように料理してやろうかのう?」
と、まさに料理の塩加減を味見しているようで、この表情がなんともいえず最高だったのである。

まだまだ話は長くなりそうなので続きはまた明日。

祝 福岡ソフトバンクホークス日本一!

あの星野阪神との日本シリーズを制して以来8年ぶり、ソフトバンクに親会社が変わってから初の日本一です。
いやー、長かった。

8年前と同様、試合が膠着状態でなかなか動かない重た~い空気の試合続きで疲れました。
やはりセ、パの年間リーグ優勝チーム同士の日本シリーズは見ごたえがありました。
さすが落合中日も強かったです。

それにしても中継したTBS。
優勝インタビューでアナウンサーがいま1年間の長い戦いがようやく終わったばかりなのに「アジアシリーズに向けて・・・」などとくだらない質問をしたところ、秋山監督は
「その前に・・・3月の震災で・・・」と被災地の人々にむけてコメントしていて、「ああ、この監督えらいな」と感心しながら聞いていたところだったのに、時間が押しているからといっていきなりインタビューの途中で中継を終えやがった。

プロ野球会を代表して被災地にむけてメッセージを発しているのである。せいぜいあと30秒の我慢もできないのか?
ほんとにテレビ局というのはどうしようもないご都合主義だな。



今日も一段とさむいですね。
そんなさむ~い冬を快適に過ごすにはやっぱりカーペットですよ。

冬はどうしてもフローリングは冷たい。その床とじかに接する足先の冷えはなかなかガンコなもの。カーペットを敷けば足先の冷えはかなり緩和されます。

さらにうっかり物を落としても割れにくい、ひざや腰への負担も少ない。

暖房の熱が床から逃げるのを防ぐのでいま流行の節電にもつながります。

ところで日本カーペット工業組合という所がカーペットの快適性を科学する小冊子を発行しています。その名も
カーペットはすばらしい

そのなかでとても興味深い記述が・・・

P1070106.jpg

早い話がカーペットは子供の学力向上に大いに貢献するということです。

お父さま、お母さま、これは聞き捨てなりませぬぞ!

さっそく「インテリアなかつ」へLet's go!


2011.11.16 節電対策商品
これから寒い冬の到来をひかえて電力不足が懸念されていますが、インテリア業界も保温性の高いカーテンやカーペットなどの節電対策商品がいろいろ出ています。

よくお客様からも「窓際がさむいので分厚いカーテンはありませんか?」とよく聞かれます。
ただ私が思うに極論ですがたとえ10センチの厚みの分厚いカーテンを吊ったとしても(もちろんそんなカーテンは存在しませんが)寒さを完全に抑え込むことは不可能だと思います。なぜならカーテンと床またはカーテンと壁のわずかな隙間からもれてくる冷気を防ぎ切れていないからです
とくにエアコンの室外機がそばにあってギンギンに冷やされたガラス窓から漏れてくるヒヤッとした冷気といったらこれほど不快なものはない。
この冷気を室内に持ち込まないようにする対策としては窓を2重にするのが最も有効であると思います。

P1070090.jpg  P1070092.jpg
上の2枚の写真は我が家で取り付けた、後付け内窓「インプラス」の写真です。

この内窓が外気に冷やされたガラス越しの冷気がダイレクトに室内にもたらされるのを防ぐバリケードの役割を果たしてくれます。
しかも我が家は駅前の居酒屋街に近く夜になるとほろ酔い気分の方々が上機嫌で奇声を発したりされるのですが、その声もこの2重サッシのおかげであまり気にならなくなりました。
もちろん、エアコンの効率も格段にアップして電気代節約に大いに貢献してくれます。また冬のイヤな結露も大幅に軽減してくれます。
取り付けもいたってカンタン。窓枠の奥行が7センチ以上あれば容易に設置出来ますが、奥行が7センチ未満でも「ふかし枠」という部材を使って奥行を作り出して設置することも可能です。
試しに1窓だけでも設置してみたらそのメリットの大きさに感動されると思います。

また中断されていた住宅エコポイントも11月21日より復活し、この2重窓設置もポイントの対象となっていて、商品券や地域特産品などとの交換が出来るようになっています。
ぜひ、いろいろメリットの大きい内窓をとりつけて快適な冬の生活を手に入れませんか?




2011.11.15 九州場所
日曜日から大相撲九州場所が始まりました。

注目は何といっても地元福岡出身の新大関琴奨菊と大関を目指す稀勢の里でしょう。
両者とも幸先良く3連勝スタートで、今後が大変楽しみです。

琴奨菊は先場所までの高いモチベーションを保てるかがカギでしょう。
横綱に上がる力士は大抵は大関に長いこと在位せず、サクッっと横綱に上がっています。チャレンジャー精神に徹して5場所以内に昇進するくらいの気持ちで戦ってほしいものです。
私は琴奨菊は横綱に上がれる大関と見ています。理由は同年代のライバル稀勢の里や日馬富士などを対戦成績で圧倒していることと、最近は横綱白鵬の攻略法を見つけつつあることです。琴奨菊は本来左四つ得意ですが、先場所の白鵬戦ではあえて相手得意の右四つに自ら組みにいって、いい体勢を作って一方的に攻めるという頭脳プレーを見せました。左四つ一辺倒でなく相撲に巾が出たことは今後大きな武器になることでしょう。

先場所の白鵬戦


一方の稀勢の里は今場所11番勝てば大関昇進のノルマといわれる3場所通算33勝をクリアできます。実力から言って全然問題なく実現可能な数字だと思いますが、場所前に師匠の急死という異常事態に見舞われた影響がどうでるか?アドバイスをくれていた人を失ったことで、負けた後どう立ち直っていくのか?稀勢の里本人もそうですが新しい師匠(元前頭8枚目隆の鶴)にとっても試練の場所になるでしょう。ぜひ万年大関候補を卒業してほしいものです。

東京から帰ってきて、すこし疲れ気味です。

更新を3日ほどサボってしまいました。

書きたいネタは色々あるのですが・・・

明日からがんばります。

というわけでオヤスミナサイ。
2011.11.11 築地市場
やっぱり夜行バスは眠れなかった。
朝食は築地市場で海鮮丼。味噌汁もサービスしてくれた。
おばちゃんありがとう。美味しかったよ。〓
海鮮丼
2011.11.10 夜行バス

これから夜行バスで東京にいきます。

独立3列シ-トだ。よかった。
年がいもなく、ワクワクするなあ。

それでは、おやすみなさい〓
2011.11.09 消防団
今日11月9日から1週間、119にちなんで
「秋季全国火災予防運動」週間となります。

私の所属する三田市消防団でも早朝6時から武庫川で放水訓練をいたしました。
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どうか火災、自然災害等で出動の機会がありませんように(祈)。
2011.11.08 隆の里
私は生まれついての大相撲ファンである。
名刺には恥ずかしげもなく「大相撲研究家」と書きこんでいるほどである。

しかし、実に腹立たしい。もちろん某週刊誌に対してである。
関脇稀勢の里が大関に挑戦する場所直前になって足を引っ張るような記事を発表し、直接の因果関係はわからないが元からの健康不安に加えきっと心労が重なったのだろう。師匠の死去という最悪の結果に至ってしまった。
涙でインタビューに答える稀勢の里、そして大関昇進の晴れ姿を見ることなくこの世を去ってしまった鳴戸親方の無念さ。それを思うとやり場のない怒りがこみあげてくる。

弟子への暴行、違法なインシュリン注射疑惑など、真相は藪の中であるが、しかし私は生前親方と親交の深かったという草野仁アナウンサーの言葉を信じたい。(以下日刊スポーツからの引用)

>30年来の親交があったフリーアナウンサー草野仁のコメント。
 「突然の訃報に驚いています。『おしん横綱』と言われたほど精神的に強い方なので、この騒動が死因につながったと考えたくないです。騒動の内容についても信じたくありません。私の事務所には、鳴戸部屋の力士だった元関脇隆乃若の尾崎勇気もいますが、彼も『師匠は厳しい人ですが、頭をかち割るようなことまではしなかった』と話しています。また、親方は相撲以外のこともたくさん勉強され相撲界の先も見据えている方でした」。
さて元横綱隆の里については「ウィキペディア」に詳細に書かれているので、興味ある方はそちらをご参照あれ。

私が相撲を見始めたのが昭和51年ごろ。すでに幕内にいたようだが、当時は人気力士、個性派力士が数多くいたが、その中で、本当にいるのかいないのかわからないような地味~な中堅力士でした。ふつう将来大関、横綱に上がる様な力士は十両、平幕のころから光る将来性を感じるものだが、この力士にはまったくそういったものが感じられなかった。そんな感じで5年ほど平幕上位~下位でくすぶっていて、とても将来横綱になるとは想像もつかなかった。
しかし、故郷の青森から同じ夜汽車で二子山親方から連れてこられた2代目若乃花は横綱になってからも「オレのライバルは隆の里」と言い続けていたのである。ふつうに考えて天下の横綱が一介の平幕力士を“ライバル”などというだろうか?
くすぶっていたのは土俵の相手以外にも糖尿病という病魔と必死に闘っていたからで地力は充分あったのである。


昭和55年7月場所幕尻で大勝したのをきっかけに一気に実力派力士へ変貌をとげるのである。
同じころ突然化けた力士がもう一人いて、それがのちのライバルであり大横綱となる千代の富士である。
千代の富士もあまりにも軽すぎる体重と肩の脱臼癖で同じく5年ほど平幕~十両を往復しており、せいぜい関脇くらいが精いっぱいだろうと見ていました。

しかし当時の横綱輪島は二人がまだ目立っていなかった頃から「千代の富士と隆の里はすごく力をつけているね。」と相撲雑誌でコメントしており、のちになってその慧眼に驚かされてものでした。

ちなみに隆の里が覚醒しはじめたころの貴重なVTRがこれ(昭和55年秋場所)

その後昭和56年、千代の富士が大ブレイク。一気に横綱まで駆け上がりウルフフィーバーを巻き起こす。
隆の里も糖尿病という病魔を克服し、後を追うようにじわじわと力をつけ、昭和57年大関、58年横綱に昇進する。

千代の富士とは毎場所のように優勝をかけて対戦するが、同じ右四つ同士で、がっぷり四つになると体力に上回る隆の里が圧倒していた。下積みが長かった男たちの意地と力ののぶつかり合いは紛れもなく真剣勝負で熱かった。

しかし、体力に恵まれしかも愛想もクソもない能面のように無表情な隆の里が、国民的ヒーローで小兵だった千代の富士に毎場所のように屈辱を味あわせつづけるそのすがたは紛れもなく憎まれ役であった。

だからこそ引退後、NHKのスポーツニュース「サンデースポーツ」の相撲コーナーで、素人にもわかりやすく理路整然と明るく解説をする鳴戸親方の姿は「これは、本当にあの仏頂面だった隆の里なのか?」と我が目を疑ったほどである。

出来ることなら、NHKは大相撲中継の解説者としてこの人を起用してほしかった。今の北の富士さんの解説も嫌いではないが時折「この人は真面目に解説する気があるのか?」と思ってしまうことがある。

そして、親方として多くの関取を輩出した傑出した指導力と、努力と忍耐で病魔を克服し「おしん横綱」と言われたほどの苦労人の隆の里こそ数年後理事長になるに最もふさわしい人物だと思っていた。かえすがえすも大相撲界にとって大きな損失であると思う・・・・。

う~む、決して現役時代ファンではなかった隆の里についてずいぶん長々と語ってしまった。

とにかく今言いたいことは
「稀勢の里、がんばれ、とにかくガンバレ! 
 絶対に九州場所後には大関昇進を亡き師匠のご霊前に報告するのだ!」





インテリア業界以外の一般の方々にも知名度が浸透しているメーカーと言えば多分、サンゲツと東リではないでしょうか?
事実、この2社は売上高は業界№1と2ですし、CMなどでメディア露出があるのもこの2社だけだと思います。
それだけ会社の体力があると見るべきなのでしょうか?

まずサンゲツですが、ただいま人気絶頂の鈴木福くんの「機能性壁紙」のCMがテレビでバンバン流れていますね。いまオンエアされているのはリニューアル版のCMで、初期版のCMは2年くらい前から放映されていたと思います。

当時の福くんはまったく無名で
「なんや!このこまっしゃくれた子役は!ほっぺたツネったろか!」
などとおもっていたものです。(いや、決して私はそんなことはしません。やさしいオジさんですよw)
それが「マルモのおきて」で大ブレイク。1年前、このような展開をいったい誰が予想したでしょう?

彼をCMに起用した慧眼や恐るべし。やっぱり業界NO1は何かが違う。今流にいえば、サンゲツは「持っている」んでしょうね。

次に東リ。
東リと言えば言わずと知れた毎週日曜日の午後放映のアタック25のスポンサーです。
ウィキペディアで調べたところ昭和50年から続いているということなので、私が物心つく頃にはすでにはじまっていたんですね。現在、唯一の視聴者参加型のクイズ番組ではないでしょうか?

今日も昼食の合間に少し見ましたが、なかなか問題難しいですね。ボタンおすのも早いし、本番に出場するような回答者はやっぱり強いですね。早くボタン押しすぎても
「○○ですが・・・、では△△はなんでしょう?」みたいなひっかけ問題もあるから押すタイミング難しいでしょうね。

あの番組って東リの社員に聞いたところ、東リの社員とかまたは社員の紹介とかで優遇して出演させてもらえるということは絶対にないらしいです。あくまで実力で厳選された人しかあの回答席に立つことはできないそうです。
まあ、仮に私があの番組に出場してもせいぜい2,3枚しかパネルを取れないでしょう。

現在はアナウンサーの方が司会をされていますが、何といっても長年番組を進行してこられた児玉清さんの印象が強いですね。おもわず、引き込まれるんですよね、博多華丸がマネしてブレイクしたあの独特の口調に。
(博多華丸について語りたいことがあるんですが、ぜひまたの機会に・・・)

ちなみに東リのラグの中に児玉清さんのデザインしたラグが商品化されています。
http://www.toli.co.jp/digital_catalog/rugandmat2010/digital_catalog.html?id=0013
あ、御用命はぜひ当店でお願いしますね。メールでも電話でも大歓迎です

インテリア業界発展のためにも、世のクイズマニアのためにも「東リパネルクイズアタック25」はこれからもずっと続いてほしいと思います。

当店で取り扱っている商品はカーペットのような大きなものから、小さな雑貨類までインテリアに関するものが多種多様にあります。
中にはとても思い入れの深い商品、とっておきの商品もあるのです。
そんな商品を紹介したいと思います。

私が「インテリアなかつ」に入社したのがかれこれ15年前。

実は当時から存在している商品が4点だけあるのです。

「要するに売れ残りでしょ?」

いや、それは断じて違います!
「賢者の説黙(せつもく)は時を待ち人を待つ」(by弘法大師)
この商品たちは、自分たちを部屋にしつらえ、共に同じ時間を刻んでくれるにふさわしいお客様との運命の出会いが訪れるまでずっと待ち続けているのです。


他所ではお目にかかれない逸品そろい。それでは紹介いたします。

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ベルギー製カーペット「ガラキン」 250×350 ウール100%
530000円→198000円
ペルシャじゅうたんを思わせる打ち込みの細かさ。これほどの密度のウールカーペットでこの価格の品は他ではお目にかかれません。

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パキスタン絨毯 ウール100% 253×305 178,000円
白い大理石調の床によく映えそうなダークブルーのパキスタン。一昔前のパキスタン絨毯は色ツヤと毛並みの美しさがワンランク上。

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パキスタン絨毯 ウール100% 140×200 149,800円
オレンシがかった朱色が美しいパキスタン。このパキスタンは密度がペルシャ絨毯並に細かく、毛の1本1本がピンピン立っている感じ。この絨毯を見た専門家からも「もう、このようなパキスタンが世に出ることはない」とのお墨付きを頂いたほどの品。

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パキスタン絨毯 ウール100% 127×188 
149,800円
こちらも上の朱色のパキスタンと同じグレードの品。あずき色の落ち着いた色調です。









2011.11.05 ホークス
福岡ソフトバンクホークス。

パリーグでは2004年以降3度もレギュラーシーズンで1位の成績を収めながら、理不尽極まりないクライマックスシリーズのおかげで、日本シリーズ進出を阻まれてきた我が愛するホークス。

しかし今年は何かが違う!

今日は過去のクライマックスシリーズで凡打を繰り返してきた松中さんがなんとグランドスラム! まさに「漢」や!

悲願のクライマックスシリーズ制覇まであと1勝じゃああ!



それはそうとスマホ欲しいな・・・ 


2011.11.02 柿ジュース
秋の味覚と言えば「柿」。
当店の大ベテラン店員T氏が家で実った柿を沢山持ってきてくれます。
なかなか甘くて美味しい。うちの柿好きの息子は喜んで一人で何個も食べています。
柿
しかし、私は考えてしまう。”皮向いて生で食べる以外に柿の食べ方は無いのか?」と
「そうだ、柿ジュースだ!」
しかし柿ジュースというのは聞いたことがないなあ?

早速インターネットで調べてみる。「庄内柿ジュース」なるものが商品化されているようだが、実際入手は難しそうである。
さらにネットで調べると私と同じような事を考える人がいるようで、柿ジュース作りにチャレンジしているブログが結構ある。ただし、ほとんどの人は「牛乳割り」に行きついているようである。

それでもまずは、生ジュースにチャレンジしてみよう!
ということで柿を細かく切り、ジューサーにかける。
ミキサー
柿自体の水分量が少ないためペースト状にしかならない。
それが、柿ジュースが出回らない原因だったのか。

一応スプーンですくって生ジュース感覚で味わってみる。

繊維がもそもそしてあまり美味くない。

やっぱり、先人の皆さんがされているように牛乳わりにするか。


ミキサーの中の柿ペーストの半分の量をシェーカーに入れ牛乳を注ぎ、よくシェイクする。シェーカー
 しかし、これも柿の繊維質が口の中でぼそぼそして非常にのど越しが悪い。
 この繊維質の中にこそ、高い栄養価が含まれているような気がするのだが、仕方がない。
 食感の悪い繊維質を取り除こう。
 茶こしで柿の繊維質を取りのぞき、液体のみを取り出す。
       茶こし

これが完成品!
柿ジュース 試飲する。


おお、意外にウマい!
ほのかに柿の香りと甘みがあり、牛乳との相性も良く飲みやすい。
嫁にも好評である。
生柿に飽きたらまた作ってみよう! 

2011.11.01 ラーメン
ラーメン今日の昼食は当店の真ん前の博多ラーメン。
福岡出身の私としてはとんこつラーメンには目がありません。そしてダイエットを気にしながらも必ず替え玉をしていまいます。

今でこそ替え玉のできるラーメン屋さんは珍しくなくなりましたが、三田には最近まで替え玉のできるお店は無く、10数年前三田に移り住んだ当初、入ったとんこつラーメン屋の親父さんに替え玉は出来るか聞いたところ、ギロッと一べつされ、たった一言 「ない!」
まあ、そんなもんでした。

麺の固さが選べるのも博多ラーメンの良さですねえ。私は1杯目カタめん、2杯目バリカタで食べるのが好きなんですが、バリカタよりさらに固い”ハリガネ”、さらにはサッとお湯にくぐらせただけの”粉おとし”というのもあって、それはいまだにチャレンジしたことはありません。果たしてうまいのか?ちょっと疑問ですねえ。

そういえば昔住んでいた門司におもしろいラーメン屋さんがありました。
かなり高齢の見るからに頑固そうなおじいさんがやってた店で、もちろん美味しかった。しかし何時に開店するのかはオヤジの気分しだい。1時ごろ開くこともあれば、4時頃やっと開くこともある。
そして指がスープにつかえた状態で「ハイお待ち!」・・・ベタなコントにでてくるようなラーメン屋さんでした。
屋号は”ミ〇ズラーメン(あえて伏字にします)というんですが、
メニューには
・ミ〇ズラーメン
・特製ラーメン
・ラーメン
  ・
  ・(その他いろいろ)
あるんですが、普通の「ラーメン」を注文すると、
「はあん? ウチのお客さんはほとんどミ〇ズラーメンか特製ラーメンを注文するんじゃけどねえ!」
と言ってオヤジの機嫌が悪くなるらしい。
噂には聞いていたが、実際うちの姉が普通のラーメンを注文したら、同じように言われたらしいです。

それならはじめから普通の「ラーメン」をメニューに入れなければいいのに。。。

あれから20年近くたつからもう店は無いかなあ。実家に帰ったら寄ってみるか。

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