魁 傑前回のつづき
せっかく苦労して再び手にした大関の地位であるが、ケガの影響で万全の体調で土俵に上がれず、わずか4場所でまたしても大関の座から滑り落ちてしまうのである。
その後もくさることなく誠実に土俵に上がり続けたが、もう大関返り咲きを目指して快進撃を続けていたころの元気な姿を見ることは出来なかった。

それでも昭和53年3月場所相撲史の残る大激闘を演ずる。
相手は「相撲博士」「ピラニア」「土の匂いのする力士」の異名をとる大関旭国。すい臓炎で入院しながら病院を抜け出し本場所の土俵に上がり「土俵の上で死ねるなら力士として本望」の言葉を残しており、「休場は試合放棄」と語り決して休場しなかった魁傑とは相撲へ命を賭ける姿勢という点で通じるものがある名力士であった。
相撲はお互いに一歩も引かず3分以上が経過し水入り、取り直し後の相撲でも決着がつかずついに2度目の水入り。
大関と元大関の取り組みはお互いに負けられない意地があったのだろう。
さすがに3番続けて取らせるわけにいかず、後ろに控える横綱戦を先に終えたのち、結びの一番として再戦するという前代未聞の措置がとられた。3度目の取り組みも大熱戦となったが、最後は息の上がった旭国を寄り詰め、必死に残すところを渾身のすくい投げで合計10分23秒の死闘に決着をつけた。NHKの中継終了時間は実に18時23分であった。
この勝負はまだ前半戦の7日目に組まれており、両者これほどの激戦を演じたにもかかわらずともに終わってみれば10勝5敗の好成績を残したのである。その鍛え上げたスタミナには驚くばかりである。

そして54年1月場所、ついに引退した。私は「まだ余力があるだろうに・・・」と残念な思いだったが、見事な散り際だったとも思う。

好調時には突っ張ってよし組んでよしで、投げや出し投げのキレが鮮やかで、入門前は柔道でオリンピックを目指せるほどの逸材だったらしく内掛けなどの足技もみごとであったが、反面腰高で両足がそろってしまう癖があり脆い負け方をする傾向があった。その強いときと弱いときのギャップが見ているものをハラハラさせた。そこがまた人気の秘訣だったのかもしれない。

輪島と魁傑。 同じ花篭部屋に所属しほぼ同時代に活躍していた。別に私は花篭部屋のファンではなかった。この2人のファンだったのは全く偶然である。でも同部屋同士なので本場所の土俵で二人は対戦しなかった。二人とも優劣けることなく心おきなく応援できたことが幸せだった。
それにしても対照的な2人だった。強運の持ち主で、派手好みで相撲ぶりもずる賢さすら感じるほどウマい輪島に対し(輪島さんゴメンナサイ)、魁傑の土俵は誠実そのもので常に病気やけがなどで不運が付きまとっていた。まさに光と影のように対照的であった。
しかし、引退後の二人は逆転する。私生活のトラブルで輪島の花篭部屋は閉鎖を余儀なくされ魁傑の放駒部屋に吸収されるのである。

その後「スイーツ横綱」こと大乃国を育て、現在はご存じのように理事長の重責をになっている。元横綱が代々務めてきた理事長の座に大関としても芳しい成績を残せなかった力士が座るのである。現役引退後の親方人生では異例の出世と言えるだろう。
放駒理事長
しかし例の八百長騒動では、持前の愚直な人柄がかえって裏目に出た気がするのである。
はっきりいって八百長など大昔から存在するにきまっているではないか。何をいまさら!である。
世間が何と言おうが当初携帯メールで名前が挙がった3.4人だけ謹慎処分にしてお茶を濁せばよかったのではないか? もし他の人間が理事長だったらあそこまで多くの廃業力士を出さずとも適当に幕引きを図ったのではないだろうか?真っ向からに問題に取り組みすぎて事を複雑にしてしまったような気がするのである。

うーん、でもそれは無理な話か? 外部理事の手前もあるし、公益法人への移行問題で文部科学省に急所を握られている状態ではなおざりな対応では許されなかったであろう。そして今は年寄株の問題でも早急な対応を迫られているようである。大変な時に理事長になったものであるが、定年までの残りの期間、大相撲を後世にしっかり残せるよう、改革を進めてほしいと思う。

この項終わり。




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